
2023,Nov,ひめゆりの塔の横に口を開けているガマ入り口
沖縄の戦跡をめぐると平和教育がパッケージとしてしっかり存在し、沖縄県民による残す努力も伝える努力もヒシヒシと伝わってくる。
しかし私が本土で感じていた空気感とあまりに離れていて、頭がくらくらとして解離しそうになった。
正直、沖縄戦を調べる前は沖縄でこれほど凄惨な戦が繰り広げられていたことを知リませんでした。「1/4の死者」や「鉄の暴風」、「集団自決」など調べれば調べるほど、「戦争だから」では済まされないような惨たらしいことが各地で頻発していた事実を前に、途方に暮れました。
自分の無知に対する恥、罪悪感。卑しくも写真家を名乗っているのにも関わらず、自分の想像力の欠如が悲しくなってきました。
SE™️(ソマティック・エクスペリエンシング)沖縄トレーニングのオーガナイザーの方が「沖縄戦に関して(日本人が)集団的にアンダーカップリングしている」と指摘していた。
アンダーカップリングはSE™️の概念で、説明すると長くなってしまうので省略しますが、要するに「抜け落ちてしまっている状態」と言えます。
このアンダーカップリングは意図的なものではなく、トラウマが由来となってある要素が過覚醒となり、ある要素が抜け落ちてしまうのです。意図的でないので、「抜け落ちてしまっている意識」もない状態です。
現地で沖縄戦の爪痕に実際に見て触れてみると、まさにこの表現がストンと落ちてきます。
凄惨な沖縄戦があったことも知らず、明らかに不平等な基地問題を正面から向き合わず、沖縄の貧困に関してスルーしているのは、アンダーカップリングが為せる技なのだと。
アンダーカップリングを引き起こす過覚醒が、沖縄の人々に戦火を押し付けた罪悪感が起因しているのか、日本が戦争に負けたことに対する恥の感覚が起因しているのか、はたまた別のものなのかは分かりません。
ひとつ言えることは、過覚醒やアンダーカップリングはトラウマによって引き起こされるということ。それが戦争によるトラウマだとするならば。そしてそのトラウマが解決されることなく世代間で連鎖しているとするならば。日本人にとって沖縄戦、太平洋戦争がソマティックな点で終わっていないのでないか。そんな空恐ろしことを感じてしまった。
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