存在証明

いつからか、存在証明という囚われが消えていた。

別に「存在を証明しないと自分は自分で価値を見出せない」と意識していた訳では、ない。
ただ、常に頑張らないといけない、常に負けてはならない、とまるで強迫観念的に思い続けていた。

そういえばアジカンにこんな歌詞があったっけ。

軋んだ思いを吐き出したいのは
存在の証明が他にないから
掴んだはずの僕の未来は
「尊厳」と「自由」で矛盾しているよ
ASIAN KUNG-FU GENERATION「リライト」

普通に考えたら、この世で生きるのに存在証明なんていらない。少なくとも自由が保証されているとされる社会では。

生物学的に哺乳類は成長が不完全なまま生まれてくる。こと人間は成長が10代後半~20代前半まで続くと言われているので、すくなくとも10代後半までのこどもは養育者に生存と養育を託すことになる。これはこどもの当然の権利であり、その際に何かを証明してみせる必要は全く、ない。

なのになぜか私は「何か」を証明することに必死だった。
自分が他者より劣っているのを認めるのは子どもながら難しいことだったかもしれないけれど、せめて「ありのままで良いんだよ」と声をかけてもらえていたら。

そもそも存在ってなんだろう。広辞苑では「ある、または、いること」とある。

「在る」ことに理由もへったくれも必要ない。
なのに「在る」ことへの価値がいつのまに、まるで値段みたいに各人に張り付けられている。
少なくとも、そんなことをうっすらと感じていた。もちろん、自分のなかで自分の値札は断トツの最低価格だった。

これが競争社会の弊害だろうか。
否、いくら競争社会であろうと、両親や家庭で「ありのままでよい」と感じさせてくれていたら、値札の値段が上がっていたか、もしくは値札すらつけずにすんだかもしれない。

冒頭にも書いたように、気づいたら存在証明の囚われから解放されていた。SE™(ソマティック・エクスペリエンシング)によってトラウマを癒したからか、はたまたヨガの実践を重ねてきたからか。おそらく相互作用だと思う。

後ろを振り返ると、そこには長い道のりが。

いまはありのままで「在る」ことに、なんら違和感を感じることがない。

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