
ドキッとするタイトル。
なぜか自分も後ろめたさを感じる。
性暴力というエクストリームな状況で許されるためにどのようなプロセスが必要なのか。
後書きにも書かれているが、にのみや女氏は性暴力だけでなく、戦争も含めた被害ー加害を念頭に入れている。
加害者の責任、被害者の許し。
日本文化における許しとは何なのだろうか。
どちらかというと、排除の傾向があるような気がする、もしくはうやむやにすると言うか。
よく企業が不祥事を起こすと、お偉いさんが集まって頭を下げているイメージが浮かぶ
これは世間が許す、というより、見せしめというかお灸を据える感がある。
この背景にある考え方は、お偉さんは多かれ少なかれ悪いことを為している、という考え方。
政治家や役人の汚職も氷山の一角なのは暗黙の了解ですらある。
責任についても至極曖昧で。
バレたら部下に責任を被せることすらある。
朧げな許しと加害。
実は私がこの書籍のタイトルを見たとき、一つのことが頭に浮かんだ。
それは最高権力者が犯罪を為したことが黙認されている矛盾である。
最高権力者とはすなわち昭和天皇であり、黙認されていることは太平洋戦争を邁進した罪である。
天皇の戦争責任については様々な意見があるけれど、結果としては加害の責任が曖昧にされている。
トップの人間の責任が不問に付された状況は、社会的には倫理の根幹を揺るがす事態と言えるのではないか。
そしてそれこそが日本人の「責任の取れなさ」と言うエートス(心的態度)を生み出しているのではないか。
そう考えると斉藤氏が本書で指摘している性犯罪加害者が自身の行為を正当化するための「認知の歪み」というのは、性犯罪加害者のみならず日本社会が抱える問題ではないかとすら思ってしまう。
だからと言って、性犯罪加害者が責任を取れないのは仕方ない、と言いたいのではない。
むしろ、この書籍が日本人の心の奥底に抱えている「後ろめたさ」を考えるキッカケとなるのではないか。
読み手の魂を揺さぶる性暴力加害者と性暴力被害者との対話の軌跡を見ていると、そんなことまで夢想してしまう。
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