アルコールによって身体を蝕まれたとても身近なS先輩を失った。
その方は昭和の酒豪さながら、飲んだ時は豪快そのものだった。
昭和の匂いをぷんぷん漂わせるその立ち居振る舞いはまさに「男が憧れる男」の典型だった。
普段から依存症の方々とお話をする機会に恵まれているが、アルコールを含めた薬物摂取や嗜癖行動は、防衛反応の一形態だとつくづく思う。
すなわち、苦痛を紛らませるための防衛反応。
「お酒がなかったら死んでいた」という言葉もよく耳にする。
防衛反応だから一時的、酔いが冷めれば根底にある苦痛がまたゆらゆらと立ち昇ってくる。
だからお酒を強引に取り上げても何の解決にもならない。
苦痛がジワジワと心身を蝕んでしまう、もしくは別のアディクションに矛先が向かうだけ。
根底にある苦痛を取り除かないと、堂々巡りなのだ。
(この辺りは以前のブログ「依存症とトラウマ」でも触れてます。)
連続飲酒の状態では最早、他者は何もすることができない。
父の姿を見ていて心底思ったのだが、死神に取り憑かれたようなものなのだ。
もやは自身の意思の範囲をとうに超え、アルコールに支配されている状態。
底つき体験をしないと変われない、とはアディクション業界ではよく言われている。
これは概ね的を得ているとは思うけれど、周囲の人間は自分の無力を痛感する。
アルコールを飲んでいる時のその豪快なS先輩の姿を、自分を含めた周囲が期待していた。
それはそれでとても楽しかった。プレシャスな時間だったし、あの時の自分には救いともなっていた。
でも。
S先輩は普段はどちらかと言えば口数が少なく、相手を常に思いやる方で、飲んでいる時の豪快さとはある種真逆だった。
飲んでいる姿を本人も望まれているとヒシヒシと感じながらも、それはある種別のペルソナ(=人格)と本人が自覚していたならば。
そのギャップは真綿を首で締めるよに徐々に本人を苦しめるのではないか。
防衛反応としての飲酒を賞賛した自分に罪はなかったのだろうか。
はたして自分に何ができたのだろうか。
そして。
生きるってなんだろう。
否、死なないで生き続けるってなんだろう。
そんなことをぼんやりと、ぐるぐる考えている。
R.I.P
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