異なり、祝福の朝

心も景色も毎朝異なる、今はそれを祝福したい。

まだ暗闇が支配しお星さまが輝く早朝、いつものように愛犬のサスケと散歩をしてました。
歩いていると突然、そこはかとない悲しみを眼と胸のあたりに感じました。
昨年の師走あたりから断続的に悲しみが湧いてくるので「またかぁ」と思ったのだけれど、その日はなぜかそのパーツに興味が湧いたので近づいてみることにしました。
悲しみの感情と胸の感覚に意識を向けていると、「やってらんねぇよ」と独りごちている自分がいました。そして自分の力の及ばない力に翻弄されることへの無力感を幼い時から感じていたことを思い出しました。
パーツに向かって「そばにいるよ」と語りかけ、「またかよ」そして「やってらんねぇよ」と感慨深くもう一度呟いてみると、ジーンと言葉が身にしみ、次第に浅い呼吸から深い呼吸へと変わるのに気づきました。
歩いていると思い出すのは店屋物を2人前頼んで独りで食べていたこと、当時のリソースだった祖父のこと、喧嘩の仲裁をしていたこと、荒れていたことなどなど。

公園に着くとそこには誰かが忘れたバスケットボール大のボールがそこにあり。ボールを見つけたサスケは遊んで遊んでとせがんでくるものだから、サスケとサッカーのようにボールの取り合いっこを始めました。ボールを奪い奪われしていると、ふと小学生の頃に独り、延々と壁に向かってボールを投げたり蹴ったりしているのを思い出しました。小学校に電車で通学していた私は、無人の家に帰っても近所に一緒に遊ぶ友達がいなかったのです。
いつのまにか私は我を忘れてサスケと一緒に夢中になって遊び、疲れて足を止めると他者と一緒に楽しく遊んだ喜びに浸ってました。
未完了の完了を味わい胸が熱くなりつつ、自然とサスケへの感謝の言葉を何度も口にしてました。

回復の道には心が動き(=感情が動き)、パーツが活性化して癒されることが必須と言われてます。
心を止滅させて心の支配から解放されるのがヨガの目標ではあるのだけれど。
心の動きを心底感謝した朝でした。

ありがと、サスケくん。

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