SE™️とスピリチュアリティ

SE™️(ソマティック・エクスペリエンシング®︎)と聞くとちょっとスピ系なイメージがあるかもしれません。今回はSE™とスピリチュアリティについて、インドの聖人ラマナ・マハルシのヒンドゥー教をベースとした考えをメインに考えてみたいと思います。

SE™ではレジリエンスという身体の叡智を礼讃し、人間はその叡智を使って身体に閉じ込められたトラウマを癒すことができると説明しています。
その際に重要となるのが身体感覚で、この身体感覚を追っていくことで潜在意識にアクセスし、未完了の行動を完了させることでトラウマを解放します。
この身体感覚は「私」という自我意識に由来しており、(セラピストの力も借りて)「自分で自分の身体を癒す」と言うことができるでしょう。

ヒンドゥー教をベースとしたマハルシはシンプルに真我をとらえる真我探求、すなわち自我から離れて真我とともに在ることを説いています。マハルシは身体も、そして身体が記憶する感覚や記憶すら自我意識が生み出す幻影(マーヤー)としています。

ここにおいてSE™️との決定的な違いが顕になります。SE™️では自我意識を用いてトラウマを癒すのに対して、マハルシはトラウマが潜む身体(=自我意識)から離れて真我(神)を信仰する(=真我をとらえる)ことでトラウマを含めた迷いが消え去るとしています。

これは何もマハルシがベースにしているヒンドゥー教に限ったことではありません。
他の3大宗教であるキリスト教もイスラム教も一神教で、どちらの宗教も神ー個という垂直の関係を説いており、神への完全な明け渡し(=神への信仰)が求められている点で、マハルシの考えとは大きな相違はないと言えます。

だとすると、SE™️と信仰は両立しえないのでしょうか?

SE™️でトラウマを解放することは、トラウマを癒す身体の叡智とはすなわち、身体に神が宿っていると感じる体験に近いのではないかと思います。

瞑想や信仰によってトラウマを癒すことができる人もいるかもしれません。しかし個の全てを神へ明け渡すことができる人は稀有な存在なのではないでしょうか。身体を自己同一化している人(=自我意識を持っている人)が圧倒的多数な現在では、そのような人々にとってトラウマを癒すためには神への明け渡しではなく、自我意識に基づく身体感覚をもちいたSE™のアプローチが「トラウマを癒す」という観点では良いということなんだろう思います。

私自身、SE™️を受けるより前からヨガに親しんでいました。ヨガによって救われ、生きやすくなったのは事実で、ポリヴェーガル的に言うと耐性領域を広げることができてとても役に立ちました。しかし「トラウマの癒し」という点ではヨガには限界がありました。少なくとも、潜在意識にまではアプローチすることができなかったことは、SE™️でトラウマを癒やした経験から実感しました。

それでは今の自分にとってヨガが無駄だ、ということもなく、SE™️を通じて己の身体の叡智によってトラウマを癒したことで、より神というものが身近になり、以前にも増して神への明け渡しを進めることができていると感じています。

このように、神への完全な明け渡しが難しい場合、すなわち信仰に迷いがある場合には、段階的な神への明け渡しとして、SE™️を経由して信仰を深めるという手法がよいのではないか、そんなことを自身でヨガを深めつつ様々なクライアントさんとセッションをして思う今日この頃です。  

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