セラピーとしてのヨガ〜自分の体験談その4〜正面突破に思いをよせて

正面突破という言葉が好きだったのをふと思い出しました。

白黒思考はアディクト業界であるあると言われますが、依存症家族の私も御多分に洩れずどっぷり浸かっていて。

それにしても、どうして正面突破にこだわっていたのでしょうか。
まず、「卑怯なことは男らしくない」という、なんとまぁ男尊女卑のバイアスに今だから笑っちゃいますが、裏を返すと、純粋というかピュアにたいする憧れがあったように思います。つまり、自分が汚れているといるという自己認識への裏返し。

また、自分にはそれ(正面突破)しかできない、という思い込みというか、刷り込みもあったように思います。兄弟と比べられ、同級生と比べられ、「お前はできない」と親から言われ続けると、その言霊は知らずと私の血肉となってしまったのだと思います。なので他の選択肢がなかった、というのが実情でしょうか。

そしてそして、死に対する憧れといういうのもあったように思います。しかも正面突破で華々しく散れば、清さや勇敢さが評価されます。そう、勇敢さは無力でも自己肯定感が低くても繰り出すことのできる大技なんです。窮鼠猫を噛む的な迫られた感が満載なんですけれど、ポリヴェーガル的にはニューロセプションが常に周囲の環境を危険と判断していたため常時、闘争・闘争モードだったのだと思います。

普段の自分では得ることのできない達成感を駆動させる「大義」ってのは怖いものですね。
ちょうど8月に入って太平洋戦争のことを身近に感じる今日この頃ですが、当時の軍部や神風特攻隊の隊員もこのような神経系の状態だったのではないかと夢想してしまいます。

思えばヨガでも始めてから数年は正面突破という感じでグイグイと力任せにポーズをとっていました。何か、失敗を恐れるというか、失敗から目を逸らすかのように。
ところがいつの間にやらその「正面突破」への拘泥を手放してました。ヨガって人と比べるものでもなく、綺麗にポーズをとることが目的でもなく。ただひたすら自分と向き合い、自分の身体を観察・対話するのが目的だと気づいたのだと思います。
ヨガをやっていると、あれこれゴチャゴチャと頭で考えてポーズをとるより、無になって集中した方が結果的にポーズが快適にとれる、ということを身体で体感できたことも大きいと思います。そして私の師匠、ケン・ハラクマ氏の、どのような意識にも自在に、軽やかに移ろう姿と接していることも大きいと改めて思いました、師に感謝ですね。

SE™️(ソマティック・エクスペリエンシング®︎)のセッションをうけてトラウマを癒し、「自分には選択肢がある」、「自分の身体は安全である」と感じることができたのも幸運でした。

ふと頭によぎった「正面突破」から徒然書いてしまいましたが、今ではヤナギのように「しなやかに生きていく」ことができればいいなと思ってます。

「セラピーとしてのヨガ」の以前の記事

セラピーとしてのヨガ〜自分の体験談その1〜身体へのコンプレックス

セラピーとしてのヨガ〜自分の体験談その2〜自分の深淵をめぐる旅#1

セラピーとしてのヨガ〜自分の体験談その3〜自分の深淵をめぐる旅# 2

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